ロンガドゥ被害者 インタビュー

 2004年2月26日~28日かけて、過去大きな虐殺事件があったロンガドゥを訪問することができ、11人の住民からヒヤリングをすることができた。ヒヤリングをした住民のほとんどは、ようやく話を聞いてくれる人が現れたといった感じで一生懸命しゃべってくれた。自分が被害にあった場面になると、声が震えたり大きくなったりした。「日本の関心のある団体や個人に知らせてもいいか。貴方の名前が日本社会で公表されてもいいか」と聞くと、ほとんどの村人は、「事実を言っているだけだ。何も隠すことはない。日本人に知らせてやってくれ。少しでも私たちのことを知ってほしい」と言われた。しかしここでは本人たちの安全も考え、仮名で紹介する。

ロンガドゥの虐殺とは
1989年5月4日に、ベンガル人の郡議会の議長であるアブドゥール・サルカルがロンガドゥのバザールの往来で銃殺された。これをシャンティ・バヒニの仕 業と断定したベンガル人入植者、軍、村防衛党のメンバーが、その日の夕方5時頃から近隣の先住民族の人々を襲い殺害し、また家々に火をつけた事件。少なく とも36名が殺害されたと言われていた。5月14日から5月30日にかけてインドのトリプラ州に逃げた先住民族は5,800名にのぼった。しかし、今回の 聞き取りで、殺された村人は78名と証言する者が多かった。ほとんどの死体は運び去られたため、時間が経っても返ってこなかった者、殺害現場を目撃した者 の証言による数を加算した数字であると思われる。現在ロンガドゥは人口の8割がベンガル人という状況である。


ロンガドゥからカプタイ湖を望む

ロゴン・チャクマ (男性 推定60歳)
当時、自分の長男息子は学校の生徒で、16歳でした。事件が起こった頃、息子はちょうど学校を終え、帰ろうとしていました。そこへたくさんのベンガル人が 襲ってくるのが見えたので、急いでユニオン議長の家に逃げたらしいです。ユニオン議長の家はコンクリート製でしっかりつくられているので、安全と思ったに 違いないと思います。そこで、襲ってきた軍人、国境警備隊、民間警備隊らによって家の中で撃ち殺されました。私は急いで逃げてジャングルの中に隠れていま した。この村全体では78人が殺されました。死体はひとつも見つかっていません。18の村が全部焼かれて、その火は2マイルにも渡って燃え続けていまし た。事件が起きて22日後、軍の関係者が避難している私たちの所に説得に来て、「安全だから戻ってこい」という言葉を信じて村に戻ってきました。先住民族 の土地のかなりがベンガル人入植者に奪われていました。グリショハリ・ユニオン、ボカチョトル・ユニオンにはもう先住民族はいません。みなベンガル人に なってしまいました。また最近新しくやってきた入植者が3世帯いて、小学校の脇で暮らしていました。隣接しているところでは、いつもベンガル人が土地を奪 おうと嫌がらせをしてきます。近くの先住民族は引っ越してしまった者もいます。

ムロキ・チャクマ (女性 68歳)
事件の時、家の方に軍人たちがたくさんやってきたので、夫は家族を近くのジャングルに逃がしていました。しかし、自分が逃げ遅れてしまい、最初銃で撃たれ てしまいました。その後、ベンガル人が手にしていた鉈で打ち殺されてしまいました。私はジャングルに逃げていました。22日後に軍人達が村に戻ってきても 安全だから・・・というので戻ってきました。その時夫の死体を見つけました。そのまますぐに火葬しました。その時5人の娘と1人の息子はランガマティに 行っていたので、助かりました。今みんなロンガドゥを出て、仕事をしています。孫2人とここで暮らしています。僅かな土地があるので、それを人に貸してな んとか生活をしています。

シュゴト・チャクマ (男性 38歳)
自分は少し離れた村で仕事をしていました。このままだと自分も危ないと思い、長い道のりを歩いてナニワチョールまで1週間かかって逃げました。1ヵ月半後 家に戻ってみましたが、全て焼かれて何も残っていませんでした。周辺の人の話で、両親をこの事件で失ったことを知りました。両親の死体はとうとう見つけら れませんでした。今そこには2人のきょうだいが住んでいます。今、住んでいる村は政治状況が悪く住みにくいです。今この郡には9つのユニオンがあります が、そのうち先住民族の人口が多いのは2つのユニオンだけです。

チョンチョイ・チャクマ (男性 62歳)
自分は事件この近くの村に住んでいました。ベンガル人が襲ってくるので、家族みんなでジャングルの中に逃げました。しかし祖母は年をとっていたので、逃げ 遅れて家の中で殺されました。そのまま家に火をつけたようです。次の日に家に戻ってきて、半分焼けた祖母の死体を発見しました。そのまま火葬しました。私 の村の40~50世帯が土地をベンガル人に奪われました。バザールや乗合バスに乗るときに、襲撃事件にかかわっていたベンガル人を見かけると緊張します。 和平協定後は、ベンガル人たちの態度も少し柔らかくなってきましたが、学校などが共学なので、トラブルが絶えないです。

ノアダン・チャクマ (男性 52歳)

事件を察して逃げようとしたら、後ろからベンガル人が鉈で私の右足のかかとを切りつけました。そのあと押さえつけられ、後ろ手に縛られました。目隠しをさ れベンガル人入植者の近くの村の谷間まで連れていかれました。そこにはたくさんの先住民族が連れてこられているようでした。物音でそれがわかりました。す るとベンガル人入植者が、罵詈雑言を吐きながら、先住民族を棒や鞭で叩いている音がしていました。打つ音がすると、そのたびに先住民族の悲鳴や泣き声が聞 こえてきました。自分も何度も叩かれました。このまま殺されるかと思いました。朝方までそれは続きました。誰かが警察にその事態を知らせたので、警察が来 てその事態は収集されました。目隠しを取られたとき、53人の先住民族がそこにいました。みんな傷をおい、疲れていました。その事件で気が狂った青年がい ます。この件でベンガル人は誰も訴えられていません。


ボニタ・チャクマ (女性 58歳)
私は事件当時、畑仕事をしていました。夕方の6時半くらいにベンガル人入植者が村々を襲っていることを知りました。家に戻る時間がないと思い、そのまま近 くのジャングルに逃げ込みました。そこを出ると危ないと思い、3日間ジャングルの中で過ごしました。水も食べ物もなくて大変な思いをしました。ジャングル の中からベンガル人が、家々に火をつけ家の中から金目のものを持ち出しているのが見えました。様子が落ち着くの見て、そのまま警察署に逃げ込みました。そ して7日後に他の家族のことがわかったのです。夫と子ども4人は歩いてナニワチョールまで逃げ、そしてそこから安全なランガマティまで逃げていたのでし た。そこからランガドゥの警察署に私の安否を確認する意味で電話がかかってきて、彼らが生きていることが分かったのです。

スダッタ・チャクマ (男性 97歳)
事件当時、自分はバザールの近くにいました。事件を知り、すぐに警察署に逃げ込みました。しかし私の家族は11人いたんですが、10人殺されてしまいまし た。娘のチッカラだけが奇跡的に生き残りました。家族を後ろ手に縛り、ジャングルに連れていって、目隠しをしたまま鉈や棒で殺したんです。私がその噂を聞 いて2日後にその場所にいった時、自分の妻を埋めているところでした。顔を見ましたが、ひどく焼かれていましたが、すぐに妻とわかりました。今すぐに死体 を渡せない、待っていろといっていましたが、1日後いってみると死体は全部なくなっていました。怪我をしていたので、しばらく病院で過ごしていました。助 かった娘と一緒にいました。もちろん殺害したベンガル人を訴えましたが、結果的に裁判に勝てませんでした。もちろん、裁判に勝つには賄賂が必要です。

チッカラ・チャクマ (女性 36歳)
私はスダッタ・チャクマの娘です。当時は20歳で、結婚して生後5ヶ月になる息子がいました。事件の時私たちはバザールのそばの家でみんな住んでいまし た。すると大勢のベンガル人が私たちの家の中に駆け込んできました。手にいろいろな武器を持っていました。その中の1人が私に鉈で切りつけてきたのです。 その時に左手、右手首、左足、頭の4ヶ所を切りつけられました。私は手を使って防ごうとしたため、抱えていた赤ん坊を地面に落としてしまったのです。する と彼らはその赤ん坊を取り上げ、地面に思いっきり叩きつけました。その時に子どもは死んでしまいました。ベンガル人が「もう何もしないから安心しなさい」 といって家にいた全員を後ろ手に縛り、目隠しをしたのです。その時にいたのは私の2人の兄、叔父そして長兄の妻が1人、母、妹、夫、私の8人でした。その まま4,5キロ程歩かされました。連れて行かれたところはジャングルの中でした。すっかりあたりは暗くなっていたようでした。私たちはその場に座らされま した。実は私の目隠しは少しずれていたので、周りの様子が少し見えたのです。するとベンガル人たちは座らせた私の家族を後ろから鉈や斧で思い切り叩き、ま たナイフなどをつかって殺し始めたのです。私は心の中で仏陀に祈りました。「私はこの世に生まれてから何も悪いことはしていません。どうか助けてくださ い」するとなぜか私の縄がゆるくなり、手が外れました。私は這うようにその場から駆け出しました。すると「逃げたぞ」という声がして、銃声が10回ほど後 ろで聞こえました。幸い私にはひとつもあたらず、私は逃げることができたのです。私はそのまま歩きとおして、朝の5時実家から遠く離れたアロム警察署に逃 げ込んだのです。そしてその日のうちに実家のそばのランガドゥ警察署に送られ、病院にすぐに入れられ2ヶ月ほど治療を受けました。この傷が完治するまでに 8ヶ月ほどかかりました。事件があってから3日後、事件現場に警察の人と一緒に行きましたが、そこには掘り起こした穴がありましたが、死体はひとつもあり ませんでした。もちろん犯人たちに訴訟を起こしましたが、結果的に裁判で勝つことはできませんでした。これまでベンガル人とはそれとなくつきあってきまし たが、こんなことになるとは想像もしていませんでした。
あれからもう一度結婚し、1人の娘をもうけました。もう5歳になります。残念ながら夫は病死してしまい、今私は日雇い仕事をしながら暮らしています。事件 のあと、もう一度現場に行ってみたりしましたが、それ以後行っていません。今でも夢でうなされたり、突然気を失うことがあります。

ジョスナ・チャクマ (女性 47歳)
バザールで買い物をして家に帰ってくると銃声が聞こえました。それが郡議会の議長が殺された時の銃声だったと後で知りました。ベンガル人入植者たちの 「ほー、ほー」という声がしてきて、大勢のベンガル人が道を走っているのが見えました。危険を感じて3人の子どもを連れて(7才の娘、5歳の長男、3歳の 次男)ヘッドマン(地頭)の家に逃げました。そこなら安全と思ったからでした。すでにたくさんの先住民族が家の中にいました。すぐにベンガル人がやってき ました。「誰か中にいるか」と聞いてきました。そこには軍人、国境警備隊、村自警団が銃をもって家を囲んでいました。彼らは返事を待たず、持っていた鉈や 斧でどんどん家の壁を壊し始めました。すると僅かな隙間が壁にできました。私は隣の部屋で床にうつぶせに伏せてじっとしていました。「あなたたちの宗教に 改宗しますから、撃たないでください」という声が聞こえてきました。ベンガル人はそこから銃身をいれて、何発も発砲したのです。銃を撃ったのは村自警団の 人たちでした。その部屋にいた人のうち6名が倒れて死にました。人が倒れて死んでいるのをみて手を叩く音が聞こえました。「ヘッドマンが死んだ」という声 が聞こえてきました。実はヘッドマンは別の部屋にいて、死んでいなかったのです。すると「みんな外に出ろ、家に火をつける」という声がしました。ある女性 が出ていったようですが、出たとたんに鉈で切りつけられていました。それを見て私は別のドアから外に跳び出て近くのジャングルに逃げ込みました。その中に 夜10時くらいまでじっと隠れていました。逃げる時に2人の子どもを見失ってしまい、3歳の小さい子だけを連れて走っていました。家の中には少なくとも 17人ほどいたと思います。あとから家の外に出ていった人は切りつけられて傷ついていました。彼らは近くの病院に連れて行かれ、治療を受けたようです。私 は夜10時くらいになりあたりが静まりかえってから、歩いてナニワチョールの方に歩いていくことにしました。夜1時くらいにそこに着きました。はぐれた2 人の子どもは、少し離れた谷間でじっと隠れていました。そこへ親戚の叔父とばったりと会い、助かったのです。子どもは私が死んだものと思ったようでした。 私はランガマティの親戚の家にたどり着き、そこからロンガドゥに電話をして、初めて夫も子どもも無事だったことをしりました。子どもとはランガマティで再 会しました。子どもは破れた服を着て大変な状況でした。子どもに「死んだと思った、どこにいたの?」と聞かれました。そういった行為をしたベンガル人は今 もすぐそばに住んでいます。道で会ったりすると本当に怖いです。今でも時々夢でうなされて起きることがあります。でもここに住むしかないのです。