ロガン被害者インタビュー

ロガンの虐殺とは 

1992年4月10日、カグラチョリ県北部パンチャリ郡のインド国境沿いに位置するロガンで発生した虐殺事件。虐殺事件のきっかけはベンガル人青年がジュマの女性をレイプしようとしたが逆に傷害を負い、その報復で始まったとされている。実際にはベンガル人入植者、国境警備隊、軍が一緒になり、ジュマの人々 を鉈、斧、銃で襲い、殺害し、家々に火をつけてまわった。
現地の評議員の委員長は死者の数は138名になると告げているが、政府の調査委員会は死者は12名と発表している。すべての死体は事件後、軍隊によって持 ち運ばれ処理されたため、死体の数を数えることは実質的に不可能だった。インドトリプラ州に逃げた数は約2,000人に及んだ。
( 『Life is not ours Vol.2』 より)

村人が伝える事件の概況について
ロガン村 今回は時間が少なかったことと、国境警備隊の監視もあるなかでの聞き取りだったので、実質的に 2名の体験を聞くだけで、あとは全体的な状況を茶屋の中で複数の人々から聞いた。多くの村人が死者の数を100名ほどと言及していた。その中で見つかった 死体は35~36人あったと言われている。この数字は事件後村に戻ってきた人の数なども換算しての数字である。
事件の原因については、ベンガル人と先住民族の青年の間で、牛を連れているとき言い争いになり、先住民族がベンガル人の青年を鉈で殺したことによるとするが、よくわからないという村人もいた。焼かれた家は 545軒にもなり、多くの住民がインド側に逃れていった。その住民たちも97年1月~2月にかけて戻ってきている。このインタビューは2004年3月3日に事件現場で行った。

【証言】 ジュオン・チャクマ(仮名 30歳)
撃たれた跡を指差す 事件は 92年4月10日午後12時頃に発生しました。その時自分はベンガル人入植者が住むクラスター・ビレッジのそばに住んでいた。ちょうど"ビズー"のお祭り が行われているときでした。午後12時頃だったと思います。周りの先住民族の人々が山やジャングルに向かって逃げていました。訳を聞くとベンガル人たちが 襲ってくるというのです。遠くから国境警備隊、ベンガル人入植者が家々を襲っているのが見えました。先住民族を殺そうとしているのがわかりました。私も急 いでジャングルに駆け込もうとしました。すると誰かが撃った散弾銃が私の腰のあたりにあたりました。なんとかジャングルに逃げ込みましたが、2時間くらい 撃たれたままの状態でそこに隠れていました。後ほど軍人たちがやってきて、ベンガル人たちの襲撃を止めていました。私の知る限りでは、この襲撃は夕方の5 時頃まで続いたと思います。私はそのまま、軍人に連れられて軍の病院で手当てを受けました。撃たれた弾が体の中に3つあることがわかり、カグラチャリの軍 本部に輸送され、そこで手術を受けました。しかし、全部の弾を取り出すことができず、今も体の中にひとつの銃弾が残っています。今、私はまだ未婚で家族と 一緒にここに暮らしています。

【証言】 コビロン・トリプラ(仮名 57歳)

ロガン村 私は家のそばで仕事をしていました。まわりの様子がおかしいと思ったときは、すでに近くまでベンガル人が来ていました。国境警備隊と思われるベンガル人が 私の方めがけて数発銃を撃ったのです。私にはあたりませんでしたが、近くにいた私の子どもの足に弾があたりました。私は子どもを連れて、近くの森に隠れて いました。そのあと騒ぎがおさまってから、子どもを軍の病院に連れていきました。本当に怖い経験でした。