年表

(1) 紛争以前 (~1973年)

1666年 ムガール帝国の戦いに敗れ、Chakma王国は従属国となる。
1777年 77年から87年にかけてChakmaを中心とするグループと英国との間で紛争が続く。最終的な交渉で、Chakma王がイギリス東インド会社に降伏。
1900年 Jummaの人々をバングラデシュ人の搾取から守るための1900年Act(Hill Tractsマニュアル)が策定され、限定的な自治区としての地位を得る。
1935年 インドの法律で完全な自治区とされる。
1962年 カプタイダムが建設され、655平方キロメートルが水没し、10万人以上が移住を余儀なくされ、6万人は十分な保障を得ることができなかった。
1962年 パキスタン政府は憲法を改正し、特定の部族地域であることを廃止する。
1971年 バングラデシュ独立。
1972年2月 チッタゴン丘陵地帯先住民族代表が大統領Mujibur Rahmanと会見し自治権などの要求をするが「少数民族の独自性は忘れてベンガル人になれ」と言われ、要求は受け入れられず。
1972年3月 Menobendra Narayan Larmaが政党としてParbattya Chattagram Jana Sambati Samiti(Chittagong丘陵人民連帯連合協会 以下:PCJSS)を結成する。



(2) 紛争後から和平協定 (1973年~2003年)

1973年1月 Shantu Larmaの指導のもとに、PCJSSの戦闘集団としてシャンティ・バヒニ(平和軍)が結成される。最盛期には5,000人から7,000人の規模に。 
1973年2月 Mujibur Rahman大統領はチッタゴン丘陵県を訪問して、「今日より、先住民族を含むすべての人びとがベンガル人とみなされる」と演説する。
1976年~ Chittagong開発局が設置される。政府の指導のもとに、ベンガル人のChittagong丘陵県入植がおこなわれる。83年までに約40万人が移住。
1977年5月 シャンティ・バヒニによる猛攻撃開始、政府軍が増強される。
1977年7月 先住民族代表者協議会とZiaur Rahman政権が協議
(78年12月15日までに計4回)
1970年3月 Kalampatiの仏教僧院で銃撃戦、約300人死亡(1回目)。
1981年6月 Manraibari-Beltali-Belchariの虐殺。数百名死亡(2回目)
1981年9月 Telafang-Ashalong-Tabalchariの虐殺。数百名死亡(3回目)
1983年7月 Golakpatimachara-Machyachara-Tarabanchariの虐殺。
約700名死亡(4回目)
1984年1月 シャンティ・バヒニが石油会社Shellの外国人技術者5人を誘拐。2月29日85万タカ、4000ドル、700ポンド、金塊19キログラムなどの身代金で5人を解放。
1984年3月 Bhusancharaの虐殺。約400名死亡(5回目)
1985年10月 Ershad政権とPCJSSの初めての交渉がおこなわれる。
(88-12-15までに計6回)
1986年5月 Marirangaの虐殺で約70名死亡。(6回目。インドに避難しようとしたさらに200人を国境警備軍が射殺)
1986年5月 Panchariの虐殺、数百名死亡。(7回目。8万人がインドで難民に)
1986年5月 Comillatilla、Taindongの虐殺で、約200名死亡(8回目)
1988年8月 Hariachar、Sarbotali、Khagrchari、Pablakhaliの虐殺で、数百名死亡(9回目)
1989年2月 チッタゴン丘陵県地方政府評議会法制定。
1989年5月 Langaduの虐殺40名。(10回目)
1992年4月 Logangの村で、少数民族とベンガル人が武器をもって衝突、400人死亡。
(11回目)
1992年8月 PCJSSが休戦を宣言する。これ以降、休戦期間は35回にわたって順次延長され、現在の休戦期間は97年12月31日まで順次延長された。
1992年11月 Khaleda Zia政権代表Oli AhmedとPCJSS代表Shantu Larmaの初めての交渉がおこなわれる。(95年10月25日まで計13回)
1992年11月 Naniarchar虐殺事件、約90人死亡。(12回目)
1996年12月 チッタゴン丘陵国家委員会とPCJSSの初めての交渉がおこなわれる。
(97年11月26日まで計7回)
1997年12月 Chittagong丘陵県和平協定調印。
2003年8月 マハルチョリ郡でベンガル人が先住民族の村を襲撃。400世帯の家が焼かれる。