チッタゴン丘陵問題とは

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巨大河川が運ぶ土砂で造られたデルタ地帯のバングラデシュの中で、チッタゴン丘陵地帯(Chittagong Hill Tracts)はバングラデシュ東南部に位置し、アラカン山脈につながるバングラデシュ唯一の丘陵地帯です。国土の10%にあたるこの場所では、古くからモンゴロイド系の先住民が焼畑農業を中心に生活を営み、デルタ地帯に居住する多数派のベンガル人とは異なる文化を営んできました。この地域に住む人々の起源については不明な点が多く、インド北部、中国南部の地域から南下してきた民族とビルマ方面から北上してきた民族が入り混じって居住していると思われます。人口の一番多いチャクマ族に続き、マルマ族、ムル族など11の民族、約60万人がここで今も生活を営んでいます。

6世紀から16世紀にかけて、トリプラ族とアラカン民族(マルマ、ラカインまたはモグと呼ばれる)というモンゴロイド系の民族が争い、交互にこの地域の支配権を争ったと言われています。同時にベンガル平野を制圧したムガール帝国が、16世紀くらいからこの地域にも勢力を伸ばしますが、大きな海戦の末1665年にムガール帝国は、チッタゴン丘陵を支配下に置きます。彼らは直接統治せず、納税のみを迫り、地域の統治はトリプラ族、アラカン民族、そしてチャクマ族などがそれぞれの勢力に合わせて行なっていたようです。

英国植民地時代

1760年、ムガール帝国は統治権をイギリス政府に手渡し、この地域は英国植民地の一部となりました。その後重税に耐えかねたチャク族とイギリス政府の間で数回の戦争を起こりますが、1787年には、チャクマ族が謝罪をする形で英国の完全な統治体制が整います。綿で納税をしたため、この地域は「Kapas Mahal(綿の地域)」と呼ばれるようになりました。

その後、アラカン地域で発生した紛争のため、1784年~1799年の間、数回にわけてビルマから大量の民族移動があり、多くのマルマ族、チャクマ族、ラカイン族がこの地域に移住し、現在の民族構成の原型ができあがったと思われます。

英国政府は、ルサイ丘陵のキク族などの反乱に対抗(1898年には制圧)しながら、徴税システムをほぼ完全なものにしていきます。1860年には、この地域を3つの地域にわけ、それぞれの地域の徴税作業と手続きをマルマ王、チャクマ王、ボム王に任せ、一定の統治権を与えることで効率的にこの地域を支配しました。これが現在のカグラチャリ県、ランガマティ県、バンドルボン県統治の原型になっています。

平野のベンガル人の流入が徐々に活発になるのを見て、英国政府は1900年に「チッタゴン丘陵マニュアル」(1900年マニュアル)を制定し、ベンガル人の土地の売買や居住を厳しく制限しました。またそれぞれの部族に与えた司法や自治の権限なども明確にしました。この1900年マニュアルが、チッタゴン丘陵に住む先住民族の自治意識の原型となっています。

パキスタン時代

1947年のインドとパキスタンの独立に際して、この地域の人々は、インドもしくはビルマの一部として独立することを望みましたが、そうはなりませんでした。そのため、東パキスタン時代(1947年~1971年)には、彼らと政府との緊張関係が高まり、憲法改正の末1900年マニュアルの権限が徐々に制約されていきました。

さらに、1962年にはアメリカの援助でチャクマ族が多く住むランガマティ盆地に発電を目的としたダムが建設され、10万人近い先住民族が移住を余儀なくされました。そのうち6万人は十分な補償が得られなかったと言われています。また平野部からもベンガル人が徐々にこの地域に移り住むようになり、緊張感は高まっていきました。

バングラデシュ時代から現在まで

バングラデシュ時代(1971年~)に入り、先住民族リーダーは、1900年マニュアルにあった権限回復を訴えますが、完全に新政府から無視されます。抑圧の危機に立たされた先住民族リーダーは、こうした動きに対抗するため72年に政治団体であるチッタゴン丘陵人民連帯連合協会(Parbattya Chattagram Jana Sambati Samiti, PCJSS)を結成しました。さらに73年にはシャンティ・バヒニ(平和軍)という武装部門が結成され、バングラデシュ政府軍と事実上戦闘状態に入りました。この地域への外国人の立ち入りが禁止され、軍が日常的に駐屯し、紛争は92年の休戦宣言まで続きました。

さらに79年になると、政府は平野部のベンガル人を入植させる政策を進め、紛争は深刻度を増していきました。83年までに約40万人近いベンガル人が政府からの土地、現金、食糧配給を前提に入植し、先住民族と入植者の数は、ほぼ1対1という状況にまでなってしまいました。ベンガル人の入植者の存在は、この地域の政治をさらに複雑にしました。紛争が続く中、政府による大型開発事業が展開され、多くの先住民族は開発事業のため立ち退きを余儀なくされていきました。

紛争の激化によって国外に一時非難した先住民族の土地をベンガル人入植者が不法占拠するケースも目立ち、土地を失った先住民族は12万世帯に上ると言われています。さらに入植者との小競り合いなどがきっかけになり、過去13回を超える虐殺事件が発生し、殺害を恐れて約6万人の先住民族がインドに逃れ難民になりました。問題解決がきちんとされない理由として、軍や警察の入植者への意識的な加担があるとされています。

和平協定以後

和解を模索する話し合いが何度かもたれた末、1997年12月にPCJSSと政府の間で和平協定が結ばれました。難民の安全な帰還、土地の返還、軍の撤退、先住民族を優先した政治体制などを条件に、2,000人近いシャンティ・バヒニの武装解除が行なわれ、難民も無事帰還しました。チッタゴン丘陵に平和が訪れるのではないかと多くの人は希望を持ちましたが、現時点に至っても和平協定の多くが実施されておらず、政府と先住民族との間の緊張感はまだ続いています。

さらに和平協定の内容に満足できず完全自治を求める先住民族リーダーがUPDF (United People's Democratic Front)を98年に結成し、先住民族の活動は二つに分断される形になりました。その後PCJSSとUPDFの間で、互いのリーダーを誘拐・殺人する報復合戦にまで状況が悪化し、和平協定完全実施のための先住民族の提言活動も効果をあげていません。

弱体化を余技なくされた先住民族の人々は、その後なんとか土地を奪おうとするベンガル人入植者の襲撃や弾圧が続くようになっています。土地収奪から発生するトラブルは毎日のように発生していますが、その中でもマハルチャリ事件(カグラチャリ県 2003年8月)、マイシュチュリ事件(カグラチャリ県 2006年4月)、サジェック事件(ランガマティ県 2008年4月)等、死傷者が出る大きな事件が発生しています。