2009/02/23 Mondayauthor: jummanet(n)

「私は何も悪いことはしていません」 ムロー民族リーダー、ランライ氏が獄中生活を語る

 
プロトム・アロー紙 2009年2月23日

ティプ・スルタン記者



「最初に目隠しをされました。次に後ろ手に縛られ、椅子に座らされました。手足の指にリングを繋がれ、電気ショックを与えられました。その苦しみは言葉で言い表せないほどでした。電気ショックを繰り返しながら、なぜシュアロク地区とチンブク・カルバリ村からムロー人を退去させることに反対するのかと尋問されました。「また、そういうことを言うつもりか」ともう一人から聞かれました。私は答えました。「私は軍に反対しているのではありません。貧しい仲間たちの声を伝えているだけなのです。こんな真冬に退去させられたら、彼らはどこに行けばいいのですか?」と。こう言い終わらない内に棍棒で叩かれました。」ムロー民族リーダー、ランライ・ムロー氏は、このように証言した。

人々に愛された少数民族リーダーのランライ氏は、2007年2月23日に軍と警察の合同部隊によって逮捕された。危篤状態のランライ氏は、高等裁判所によって保釈を認められてから19日後の1月26日に解放された。その後、ダッカ市内の民営の病院で心臓の血管に二つのリングを設置する治療を受けた。医者たちは、ランライ氏が重篤な心臓病(心筋梗塞)を患っていると語った。彼は現在も医者に見守られながら療養することを余儀なくされている。山間部で育った38歳のランライ氏は、体がひどく弱っている。しかし、彼の自信に満ちた語り口、はにかんだ笑顔、縮れた髪は昔と変わらない。今回、ランライ氏はご自分の逮捕、拷問、入院、獄中生活について本紙に語った。

「その日は木曜日でした。深夜二時半ごろ、ドアを叩く音が聞こえました。「私はバンドルバン警察署の警察本部長、ウットム・バブール・ゴラだ。評議会議長さん、ドアを開けてください。」という声がしました。どういうことか尋ねると、「家を捜索する」と答えが返ってきました。怪しく思ったので、窓から外を覗くと軍人たちが見えました。こんな真夜中ではなく、昼間に来てほしいと頼みました。しかし、彼らはドアを開けろと何度も強く要求しました。」方言と標準語を混ぜながらランライ氏はこのように語り続けた。「恐ろしかったので、ドアは開けませんでした。そのとき、家には家族が誰も居ませんでした。だから「どうか昼間に来てください」と訴えました。」

ランライ氏は語り続けた。「合同部隊の兵士は、家の4つのドアを一つ一つ壊して中に踏み込みました。既に薄明かりがさし始めていました。彼らは家に銃があるかどうか尋ねました。私は、許可証付のライフル一丁と銃弾12発を取り出しました。私の下の子供のプラスチック製の壊れたおもちゃの拳銃も見せました。彼らはそれももって行きました。私は、手を縛られ、目隠しをされて、陸軍基地に連行されました。許可証つきのライフル、銃弾、子どもの壊れたおもちゃのピストルを前に置いた写真を取られました。次に再び手を縛られ、目隠しされて、別の部屋に連れて行かれ、座らされました。」

その椅子に座らされた後、電気ショックと拷問を受けたとランライは語る。「「政治に関わっているかどうか、答えろ」と一人に聞かれました。「私はアワミ連盟を支持しています」と答えました。そうすると、さらに激しい拷問が始まりました。約2時間、拷問が続きました。もう耐え切れなくなりました。その時、地面に倒れました。そのような状態の私を置いて彼らは去っていきました。

ランライは語り続ける。「死ぬのではないかと思いました。しばらくすると、また数人やってきました。彼らは人権団体の職員で助けに来たと言っていました。誰が何のために私をそのような状態にしたのかと聞いてきました。私は「知らない」といいました。ああだこうだ質問した末、一枚の紙に署名するように言われました。私は、「いいえ、見ないで署名することは出来ません」と答えました。彼らは、「あなたの身のためだ」と言って何度も署名するよう圧力を掛けてきました。しかし、私は同意しませんでした。その時、そのうちの二人が両腕をつかんで私を立たせました。そして、もう一人がライフルの台尻で私の胸部を「ドスン、ドスン」と打ちました。内臓が破裂したかと思いました。私は気絶しました。夕方、意識が戻ると私はバンドルバン病院にいました。激痛に耐えられず叫びました。しばらくすると再び気絶しました。その二日後に再び意識を取り戻しました。その時、私はチッタゴン医科大学病院の心臓病のための集中治療室にいました。目が霞んでよく見えませんでした。」

人生初の入院:ランライ氏は生まれて初めての入院だったと語る。彼はチッタゴン医科大学病院の心臓病集中治療室(CCU)に18日間いた。妻のションレン・ムローさんとは入院中に一回しか面会を許されなかったという。それも五、六分しか認められなかった。「それ以外は誰とも面会が許されませんでした。私の容態を見て医者たちは、心臓の血管造影図を取る必要があると言いましたが、そのお金はどうすればいいのでしょう。誰も面会することも認められませんでした。」

治療を完了しないまま、病院からバンドルバンに連行され、裁判所に出頭させられたとランライ氏は訴える。その後は、バンドルバン刑務所に入れられたが、容態がさらに悪化したので、二日後に再びチッタゴン医科大学病院に入院させられたと言う。彼は病院でも手枷・足枷を掛けられた。それに抗議して断食をすると、再び刑務所に送り返された。

被収容者に必要な薬を提供するのは刑務所当局の責任だが、自分には何の薬も提供されなかったとランライ氏は訴える。家族が刑務所の近くに薬局を見つけ、そこで、つけで薬を買うことを余儀なくされたという。

家族は今や危機的な状況に:逮捕されたために健康を害されたばかりでなく、家族も経済的に危機的な状況に追い込まれたとランライ氏は主張する。「私たちは、限られた収入しかありません。妻は、まだ小さい三人の子供を抱えて、厳しい時期を過ごしてきました。私の老いた両親は二人とも病気です。その治療代をどこから得ればよいのでしょう。いつしか多額の借金を抱えるようになり、土地を全て売り払うしか返済の方法が見つかりません。何人かの人権活動家や団体、友人や篤志家が助けてくださらなければ、裁判を続け、高裁に保釈を申し立て、治療を受けることは到底出来なかったでしょう。」

司法取引:その後、チッタゴン刑務所でランライ氏の容態はさらに悪化した。やがて、判決も下りることになった。「その間のある日、二人の役人が私に面会しに刑務所にやってきました。彼らは白い服を着ていました。彼らは、政府の者だと言って自己紹介しました。「許しを請う申し立てをして、検察と和解しなさい。そうすれば、罰せられずに済むだろう」と彼らは言いました。「誰に何のために許しを請わなければいけないのですか?私は何も悪いことはしていません」と私は答えました。」

ランライ氏によると、その役人たちはダッカに連れて行って専門治療を施すことを申し出たという。しかし、彼は、そのように連れて行かれれば再び拷問されることを恐れ、同意しなかった。

ダッカの病院で再び苦しむ:先日の1月1日、容態が著しく悪化したランライ氏はチッタゴン刑務所からダッカの心臓病専門病院に移された。病院の集中治療室で足枷を掛けられ、手錠でベッドに繋がれた状態で彼は治療を施された。このことを本紙が1月3日に報じた翌日に、当局はそれを解いた。ランライ氏はダッカの病院での経験について語った。「最初の日、医者に二種類の薬をもらい、飲むように言われました。ただし、おなかに何かを入れてから飲む必要がありました。刑務官が病院のトイレに行って、薬を飲むための水を水道から汲んできました。私はその[不衛生な]水を飲むのを断りました。しかし、手元にお金がありませんでした。かばんにゴールド・リーフというタバコが一箱入っていました。刑務官にその一箱のタバコをあげて、「代わりにミネラル・ウォーター小瓶ひとつ、ロールパンとバナナを買ってきてもらえないだろうか」と頼みました。その通りにしてくれました。その後、薬を飲みました。」
ランライ氏は語る「その日、さらに医者から注射の処方箋を渡され、早く買ってきて打ってもらうように指示されました。外から買ってくる必要がありました。お金をどうすれば良いのか。隣に携帯電話をもった人が居たので、彼に娘の電話番号を伝え、電話を掛けさせてもらえないかと頼みました。刑務官は電話することを許しませんでした。しかし、近くに居た患者さんが電話番号を聞いて自分の携帯電話に登録し、外に出て娘に電話で状況を知らせてくださいました。知らせを聞いた善意の人権活動家が急いで病院にやってきて注射剤を買ってきてくださいました。一人寂しかったとき、毒を飲んでしまおうと思ったことがありました。睡眠薬20-30錠を手に入れたら一気に飲んで死んでしまおうと思ったことがありました。

なぜ逮捕されたか:ランライ氏は、人口の少ないムロー民族の頼りの綱として、先住民族とベンガル人両方の票により、バンドルボン・ショドル郡シュアロク・ユニオンの評議会議長に3回選ばれた。1995年には全国でも有数の優れた評議会議長として賞も受賞した。

ランライ氏は、自民族の人々の権利確立を声高に要求したために逮捕されたと主張する。恐怖で他の反対の声を封じるのが目的だったという。

1990年~91年にかけてシュアロク・ユニオンとトンカボティ・ユニオンの約1万1千500エーカーの土地が陸軍の利用地として収用された。2006年12月に陸軍がその土地を手に入れようとしたとき、ランライ氏はそれに強く抗議した。ランライ氏は、その土地に住む約275世帯の先住民族およびベンガル人を追い出す前に、規則に従って事前の通知を行い、再定住を図るよう他の多くの人たちと共に要求していた。彼らは、陸軍のために土地を収用する前に土地の境界線を画定することも要求していた。このために彼に対して嘘の武器不法所持の嫌疑がでっち上げられたとランライ側は審理の過程で裁判所に申し立てた。

現在、チッタゴン丘陵3県を合わせてムロー民族の総人口は約6万人で、その99%は焼畑農業に生計を頼っているとランライしは語る。日に日にムロー民族は利用できる土地が狭くなり、窮地に追い込まれているという。ランライ氏は訴える:「私たちに再び追い出されることのない明確に区分された土地を与えるよう政府に訴えたい。さもなければ、いっそうのこと、私たちを一列に並べて撃ち殺してほしい。私たちに、どこに行けというのか?」

公正な裁判を願って:ランライ氏は語る。2007年3月、彼に対してバンドルバン警察が提訴した裁判は、当時、職権上、丘陵3県の治安判事と特別法廷判事を兼務していたチッタゴン省副知事の管轄となった。「ある日、私はその裁判所に出頭させられました。その時に自分が武器取締法の下で嫌疑を掛けられ、起訴されたことを知りました。判事は、罪状を認めるかどうか尋ねました。「私は無実です」と答えました。その時、起訴状には、免許付の銃、弾薬、子どものおもちゃのピストルのほかに、ピストルの形をした鉄製の火器と使用済みのライフルの薬莢を私が所持していたと書いてありました。」非常権限規則の下で受理された本件の判決は2007年6月13日に下された。ランライ・ムロー氏は、武器取締法の二つの条項により、それぞれ懲役10年と7年の刑を言い渡された。二つの刑期は同時に進行するものとされた。ランライ氏は下級裁判所の判決を不服として高等裁判所に控訴した。司法局の組織改変の後、2007年11月から丘陵3県に治安判事が配属された。治安判事裁判所で審理が行われたなら公正な判決を受けることが出来ただろうとランライ氏は確信する。彼曰く「省副知事は行政官です。高いところから彼に圧力がかかる余地がありました。私を逮捕した将校は、審理中、毎日、チッタゴン裁判所に来ていました。彼は裁判官を勤める副知事の部屋に行って座っていました。そんな状況でどうして公正な裁判が望めますか?」