2009/04/03 Fridayauthor: JummaNet サイト管理者

2003年8月マハルチャリ襲撃事件

2003年8月26日(水)から27日(木)にかけて、バングラデシュ、カグラチョリ丘陵県モハルチョリ郡で、ベンガル人入植者により先住民族の村々が襲撃され、400家屋の家屋が略奪・放火された。暴徒を止めようとした ラムチュリ村の老人ビノード・ビハリ・キシャ氏が軍関係者に軍施設に拉致され、袋叩きにされて死亡した。また暴徒から逃れている時に泣かないように口を父親に封じられた生後8ヶ月の赤ちゃんが死亡した。その他にも、多数の負傷者が出ている。さらに、パルトリ村の母娘3人、ドポジラニール 村の女性6名が集団レイプされた。さらに、4つの仏教寺院が攻撃され、仏像などが荒らされ、僧侶たちが暴力を振るわれた。

 事件の発端は、ルパン・マハジャンというベンガル人商人が誘拐されたことに怒ったベンガル人商人たちが26日にモハルチャリの道路を封鎖していたところ、武器を持ったジュマの青年たち4人がその集団に発砲し、ベンガル人4名に重傷を負わせた。ベンガル人集団は逃げた青年たちを追ったあと、近隣の村を襲い、無差別な略奪と放火を開始した。放火と略奪は、翌27日いっぱい続いたが、治安当局が暴徒を止める措置をとった形跡はなく、多くの先住民族は軍人たちが積極的にこの暴挙に加担した証言をしている。

 その後、事件に関与したと見られるベンガル人47名、ジュマ民族10名が警察に逮捕されたが、ほどなく仮釈放されている。

 今回の事件は被害の規模で1997年12月の和平協定締結以来最大規模の事件であり、その背景にはジュマ民族とベンガル人入植者との間に土地を巡る深刻な争いがあり、かつ、今なお平野部から新たな入植者が流入し続けている現実がある。




Machine Distribution at Mahalchari.jpg2003年8月26日から27日にかけて、ベンガル人入植者、軍関係者によってカグラチュリ県ハマルチャリ郡の村が襲撃された。約400軒の家屋が破壊され、2名が殺害、10名の女性がレイプされ、2つの寺院が破壊された。ジュマ・ネットはいち早く日本社会で支援を訴え、関心のある市民グループから募金を集めた。この資金は現地でいち早く活動を展開していたPBM(Parbatya Bouddha Mission)へ送金することに決めた。
PBMは他の団体の競合を避け、乾季作が始まるので、それにあわせた農業支援事業をメインにした活動を計画、実施した。政府や国際機関の支援もあったが、ジュマ・ネットの支援はNGOの中で最初で、しかも最大であった。
今回の実施内容は以下のとおりである。

事業名:先住民族コミュニティ総合開発プロジェクト
対象世帯:特に被害のひどかった105世帯。これらの世帯は4つのグループに編成され、大きな機材の管理をし、収入の管理も自主的に行っている。メンバーは男性が中心であるが、グループ活動は順調に進んでおり、実際にグループを運営しながら学びつつある。毎月30タカ(約60円)の貯金をグループでしており、月1回のミーティングを続けている。貯金を毎回出せない家族もあり、そのことが今後の課題である。
ラムチュリ村:26名、バブパラ村:25名、ビシャカ村:27名、マハマヤ村:27名
配布物:    灌漑ポンプ 5台
耕運機    3台
種籾 3150Kg
肥料 6300Kg
冬服と毛布 それぞれ210着
教科書 100セット
配布日:2004年2月2日
視察報告(2004年2月20日に視察)

・    今回は支援した3カ所の村を見学した。どの村も家々の焼け跡が生々しく、多くの村人は当時の恐怖を、昨日のことのように話していた。また襲撃を行ったベンガル人住民や軍人らが、まだ村の周辺に居住していることで、また襲われたり、脅されるのではないかといった恐怖の中で生活している。大まかに整理すると現時点で以下のような不安要素が残っている。
(1)    襲撃にかかわったベンガル人住民、警官、軍人らが今も周辺に同居しており、日常的に先住民族社会と接触する状態が続いている。軍人や警官もその後の視察団の証言をした者への威嚇、レイプした女性の再接近などを続けており、再度事件が発生する可能性を残している。
(2)    襲撃にかかわったベンガル人20名ほどが警察に拘束されたものの、そのほとんどが保釈となり日常生活に戻っている。逆に先住民族のリーダーが虚偽の訴訟を起されており、対応のために賄賂などが必要になるといった状況が続いている。
(3)    家の再建は、すべての家にまだ完全に実施されていない。家のサイズが小さかったり、土製の家のところにトタンの家を建てるなど、現地のニーズにあわない部分もあり、実際に再建が進んでいるのは一部である。そのため、多くは部分的な修理をしたままの家で生活を続けている。
(4)    家の放火や破壊、農業器具や機織器具などの破壊により、多くの世帯が経済的な打撃を受けている。

・    この地域は近くにチャンギ川が流れる低地で、その川水を灌漑ポンプによりくみ上げて行う乾季の稲作が盛んに行われ、耕作に適した肥沃な場所である。今回の灌漑ポンプやトラクターはこういった土地に適切だったことを実感するとともに、なんとか乾季の耕作に間にあった。周辺にはベンガル人入植者を集めたクラスター・ビレッジ(グッチョ・グラム)が周辺に存在し、そこに住むベンガル人は先住民族に土地代を払って耕作し、先住民族の耕作の日雇い仕事などを請け負って生活している者が多い。最近は先住民族の土地にベンガル人が勝手に住み着いたり、先住民族の土地の草を勝手に取っていったり、家畜に食べさせたりと、いろいろと小さいトラブルが耐えなかった。その中で今回の事件が発生した。

・    今回の襲撃事件で支援活動を展開しているのは、バングラデシュ政府(物資支給と家の再建)、ジュマ・ネット(農業、教科書、毛布、衣類の支援)、UNDP(家の建設)、カリタス(家の建設)であった。支援事業の詳しい状況を把握はできなかったが、現地を視察した印象では、壊れた家も目立ち、支援は充分行き渡っているとはいえない状況と考えられる。経済的な復興にはまだ時間がかかると思われ、特に怪我やレイプの被害を負った家族の被害は深刻で、特に被害のひどい世帯への支援が今後は必要と思われる。

・    レムチュリ村では、焼けた家が数件残っていたが、ここでは63世帯の家が焼かれた。多くの家は、ありあわせの物で修復され、なんとか生活できる状態になっていた。村の寺がンベンガル人入植者によって破壊され、修復ができず、隣の臨時の小屋で祈りの集会を持っている。軍人らも混じったグループが寺の破壊に1時間もかけた。仏像も斧で首が落とされ、池の中に投げ捨てられた。寺の建設費用をジュマ・ネットに出してほしいという要請を受けた。事件後襲撃にかかわったベンガル人20名が逮捕されたが、1ヵ月後釈放されおり、今もこの周辺を歩いている。そのため、日中も安心して歩けないと言う村人が多い。逆に先住民族32名が嘘の訴訟を起されており、その対応で賄賂などにお金を使わなくてはならず、苦しい状況にいる。

・    レムチュリ村在住のショントロン・ジュム・チャクマ(65歳)は、道を歩いているところ、大勢のベンガル人が襲ってきたので、逃げようとしたところ、後ろから鉈でなぐられ、気絶した。ベンガル人は自分が死んだものと思い、そのまま走っていった。軍の病院に連れて行かれ、治療を受け、一命をとりとめた。「もうこんな体験はこりごりだ」と訴える。

・    ノアパラでは、12世帯の家が焼かれるか、もしくは壊された。この村ではPBMが配布いた灌漑ポンプやトラクターが稼動していた。灌漑ポンプは近くのチェンギ川の水をくみ上げ、乾季米のために使用されている。耕作地をもつ組合員は、広さにあわせて使用料を払う。ディーゼルは土地の所有者が支払うことになっている。トラクターの場合は、40デシメルの土地の耕作に対して100TKと(ディーゼルは依頼人負担)運転手の30TKを支払ってもらい、土地の耕作を引き受けている。これまでに20エーカー(200デシメル)ほどの土地を引き受けて耕した。これらの収入は組合の共通のファンドに入れて、組合員が必要な時に年利3%程度で貸付の資金とする予定である。

・    バブパラ村は最初に襲われ、最大の被害を出した村で、79世帯の家が焼かれ、破壊されている。視察でも、その被害が甚大なのが見て取れた。また殺害されたビノッド・ビハリ・キシャ(57歳)もここの出身である。彼の妻と息子と面談をすることができた。現在11年生として学校に通う18才になる息子は事件、当時軍人の銃剣で左腕を2箇所刺され、大怪我を負った。病院で治療を受けたが、左腕は動かなくなってしまった。また、家の全ての物を焼かれ、壊されたので、日々の生活にも困っている状態で、親戚の家の片隅で生活をしている。今後は、特にひどい被害を受けた世帯の再生のための支援事業が必要と思われる。そういった世帯が10~20世帯ほどあるという。

・    今回はレイプされた女性のインタビューを行うことができた。マハルチョリの襲撃事件で10名のレイプ被害者の報告がされている。そのうちのひとりであるA (35)の証言をパハルトリの家で1時間ほど聞くことができた。

『村の襲撃が始まったので、娘と生後8ヶ月の孫、そして私は一緒に逃げていました。しかし川のほとりでボートにのったベンガル人入植者と軍人たちと出会いました。彼らは船から降りてきて、最初私の娘を捕まえようとしました。もみ合っているうちに、孫が激しく泣くのでベンガル人入植者が子どもの首をしめて殺してしまいました。娘を捕まえようとしましたが、娘が腕を振り払って逃げたため、私の方へ向かってきました。私は逃げることができずつかまってしまい、船に乗せられました。その後どこかの森に連れて行かれレイプされました。数日後解放され、家に戻ってきました。事件ののち、夫が私を遠ざけるようになり、今は一緒に暮らしていません。自分の息子と私だけで生活しています。将来のことが不安でしかたありません。また事件以後、体のあちこちが痛みます。その後警察官が私のことを訪ねてきたと聞きました。まだどこかに連れていかれるのではないかと恐ろしいです。』

・その後のマハルチョリ襲撃事件に関連する動向として、以下のようなものがあった。
(1)    UNDPはすでにチッタゴン丘陵地帯における支援活動の準備を進めていたが、マハルチョリの襲撃事件を重くみて、UNDP特設調査チームが組織され11月に訪問を行った。これにより入植者への支援の検討の是非、先住民族への配慮に関する議論が始まった。
(2)    2月末には、軍関係者は、事件の原因はUPDF(United People's Democratic Front=完全自治を要求する先住民族グループ)のベンガル人誘拐・脅迫にあり、その後もUPDFが銃を使った襲撃をし、家に火をつけたという供述を行っているが、国会議員や新聞などではそれを疑問視する声が出る。
(3)    3月23日はUNDPとUEの働きにより、ドイツ、イギリス、フランス、デンマーク、イタリア、オランダ、スウェーデンの大使もしくは書記官が現場視察を行った。

・    以上を総括すると、マハルチョリ襲撃事件に関して以下の点を注意深くみていく必要がある。
(1)    特に被害のひどい世帯の救済がまだ必要である。
(2)    再度、襲撃事件やハラスメントが発生する可能性があるので、再発防止の活動が重要である
(3)    これまで多くの事件は、闇に葬られ正当な解決がされてこなかった。マハルチョリ事件は以前のものと違って多くの情報が世界に流れることになり、多くの大使館関係者が訪問する結果となった。この事件の正当な評価を求めていくことで、今後の力関係に変化をもたらす可能性がある。