Simoの記事一覧

ハジョン(Hajon)のこと(4)
ハジョンのこと、これで最後です。
チナマティ(China-Mati)の問題のことです。
今回Durgapur郡のBagaula地域に行ったとき、初めてチナマティ問題を知りました。
チナマティとは、バングラデシュで陶器(現地でChina:チナ=陶器)をつくるための白土のことです。特にDurgapurの国境沿いの土は、バングラデシュで最高の土ということで、何十年も前から、土地の採集が続いています。小高い丘の白土を人足を使って掘り出し、トラックや船で運ぶのですが、これらの作業は政府から公式の採集許可をとったベンガル人による小さな会社(請負人)が行っています。
採取場所が減ってきたこともあり、最近は丘に住んでいるハジョンのところにも会社が入り込んできて、家のすぐ脇の土地を深くえぐりとって採集をするようになってきています。そのため土砂が崩れ家が崩壊した場所、溝ができて家まど遠回りして行かざる得ない人、違う場所に住み変えた人などが続いています。
私が訪ねたとき、すでに業者が入り込んで、ハジョンの家の脇を深く掘っていました。「どうして勝手に掘るんだ」と尋ねても、「俺たちは雇われているだけだから」と黙々と作業と続けていました。近くに住むハジョンの人も、佇んで作業を見つめていました。こうした状況が数年前から続いているということです。
土採集会社は、賃金未払い問題を抱えているもの多く、会社側が労働者にまとまったローンを貸し付け利子をとるため、賃金だけでは返せない人も続出しているようです。そのためここで働いているHajonの人々はひどく搾取されているようです。
一度抗議デモを実施し(すいません時期は確認していませんが)、新聞等にも掲載されたようですが、政府や会社側の動きはあまりなかったようです。この問題は深刻で、以前ジュマ・ネットがフリバリ炭鉱の問題を扱いましたが、これに似た構造を感じました。
以上です。
平野部の問題にジュマ・ネットとして何ができるのかわかりません。
ただ、お世話になった方々、文化が押し殺されているハジョンの人々、チナマティ採取が理由で住む場所を奪われている人のことを考えると、やりきれない気持ちです。(写真は、ハジョンの家の脇の土を採取する業者たち)


ハジョン(Hajon)のこと(3)
ハジョンの続きです。
なぜこんなに人口が減ってしまったのでしょうか。
パキスタン時代に急激に人口が減ったのは、1964年に起きた、ベンガル人の襲撃事件だったそうです。
これはインドがアッサム地域に広がってきたベンガル人移住者を強制的にパキスタン側に追い返し、難民化したベンガル人がこのインド国境沿いにあふれ、政府は対応に苦慮していました。64年に小さな事件をきっかけにベンガル人のハジョン、ガロを狙った襲撃事件が発生、ハジョンらは大量にインド側に逃れました。多くのハジョンはインドから戻らず、彼らの土地の多くがベンガル人難民に分け与えられたということでした。
こうした事件は、71年、75年にも発生していますが、最近は減って、ほとんど起きていないそうです。(写真は、ハジョンコミュニティに向かう道です。すぐ向こう側がインドです。)


ハジョン(Hajon)のこと(2)
さて、前回の「ハジョン」の続きです。
わずかな時間ですが、彼らと接して強く感じたのは、「ハジョン意識の弱体化」「ベンガル化」です。
たとえばベンガル人に囲まれた地域では、子どもたちはHajonの言葉を話せず、ベンガル語を常用し、年配者が家の中だけでHajonの言葉を使っているとこがいくつかありました。そうでない地域でも、Hajon語の中にかなりのベンガル語が混じって使用されているようです。
また「Patin」という胸のあたりで巻いて着る女性の民族衣装も、糸が高いということでほとんど織られておらず、ほとんどの女性がサリーを常用しています。また頭の結い方も、これまでは後ろ左側に巻き込むように結っていたものが、ベンガル人女性と同じ髪型になってきています。お酒も近隣のベンガル人を気にしてあまり飲まないようにしているようです。
ヒンドゥー教の神々が、コミュニティによって異なるため宗教共通の催事がなく、Hajon共通のネットワークがあまり強化されていないようです。ただ、古くからおこなわれてきた収穫祭のような「Kamakka」と呼ばれるお祭りがあるようです。しかし、これらはこれぞれのコミュニティでバラバラに行われているようです。
土地の所有面積も少なく、非常に困窮しているのがわかりました。多くの人々が賃労働をしてしのいでいます。土地の喪失により、経済的にも大きな打撃を受けています。
最後に。どこで話しても感じるのが、人々の「自信のなさ」といった雰囲気です。自分たちの文化を自由に楽しんだり、意見を主張したり、行政府に働きかけて要望を伝えたりということに、人々の強いパワーを感じることができませんでした。(写真は、村のことを聞きにいったときに集まってくれたハジョンの人々です。子どもが一番多かったです)


ハジョン(Hajon)のこと (1)
今回、チッタゴン丘陵への出張後、バングラデシュ、マイメンシン県北部のハジョン(Hajon)の人々の村々を少し周ってきました。そのことを簡単にご報告します。
ハジョンの人々とは、1991年頃、シェルプール県を歩いていたころ、偶然彼らの村を見つけ、ハジョン民族の存在を知りました。今回の訪問は、バングラデシュ先住民族社会の中で、彼らのプレゼンスがかなり弱いと感じることが多く、一度現場を見てみようと思ったからです。
今回訪問した場所は、マイメンシン県のハルアガット、ネットロコナ県のドゥルガプール、シェルプール県のナリタバリという場所です。インド側のメガラヤの山々がかすんで見え、水田が広がり、アモンの田植えでどこも忙しそうでした。ときどき象が現れて、地域の村を襲うそうです。
英国植民地時代は、マイメンシン地域全体にハジョン民族が主流民族として生活をしていたそうです。今はこの地域のマジョリティ先住民族となっているガロ、また今はほとんどインド側に移住してしまって数くないBanai民族、Dal民族も数多く住んでいたそうです。インド側にもハジョンが多数いるということですが、現在どのくらいの人口なのか調べていないのでわかりません。
彼らはヒンドゥー教を信仰し、古くから稲作を中心とした農業を営んでいました。人口は1951年時に35,000人、現在は18,000人程度まで減少していると言われています。
今は、私が見てきた地域にハジョンがかたまって住んでいると言われ、バングラデシュの先住民族の中でも、ベンガル化が進み、政治的・社会的にも弱い先住民族として指摘されています。顔かたちはガロとベンガル人を合わせたような風貌で、家も土で造られたものが多かったですが、ベンガル人の家に似ていると思いました。(写真は、ハジョンの女性で、パティンという民族衣装を着ているところです)


チッタゴン丘陵に出張してきました
共同代表の下澤です。
8月4日から、8月15日まで、チッタゴン丘陵へ様々な調整のために出張してきました。事務局スタッフの金さん、フォトグラファー希望の成松さんも同行しました。二人とも始めてのバングラデシュで、気候や人々、文化に自分を合わせるのに、しばらくは大変だったようです。
今回の出張は、様々な事業の調整、とくに2月に発生したバガイチャリ事件のその後の政治動向、そして、被害者支援の調整をすることが目的でした。
8月4日にした理由は、この日までは、飛行機のチケットが安かったからですが、私は大学の試験の採点がぎっしり詰まっていて、3日までに全部仕上げるのは本当に大変でした。(愚痴です・・・)
今回、たくさんの方々にお会いし、意見交換、支援の調整をしてきました。ここでは印象的だったことだけを少し触れます。
(1)2010年2月のバガイチャリ・カグラチャリ襲撃事件があってから、現地では軍の監視が強くなり、特にNGOへの監視が強まったようです。あいかわらず事件のおきたバガイチャリでは、ジュマの人々は下の場所に戻れず、支援も十分行き届いていないため、被害者は苦しい状況があるようです。
(2)バガイチャリの被害者にあってきましたが、軍人に銃で撃つ殺された遺族に会いました。その中でも女性を撃ち殺した話は、聞いていてつらかったです。政府からは慰問金として5万タカが出たようですが、残された家族の気持ちは複雑だろうと思います。
(3)バングラデシュ国会では新しい先住民族の権利を考える議員フォーラムが設立されたり、憲法改正の動きの中で、先住民族の地位を盛り込もうという動きがありました。
(4)ランガマティで、PCJSSやUPDFといった政党ではなく、純粋な市民による委員会が設立され、政府や関係機関に要望や主張をしていく動きが新たにありました。希望がもてます。
(5)ぜんぜん関係ないことですが、電動オート三輪があちこちに走っていたことが感動的でした。ちなみに中国製です。
2009年と比べるとややCHTイシューへの対応は弱まっているかのように見えますが、今後どのようにジュマ・ネットも運動をつくっていくべきか、考えさせられました(写真は、ランガマティ県から見た、カプラタイ湖です)


