2008/05/05 Mondayauthor: jummanet(n)

焦土と化したサジェクの村々:市民チームが調査と緊急救援を呼びかける

初出:2008.5.5
プレス・リリース

ランガマティ県サジェク・ユニオンの7つの村で約150戸の住居が全焼したとのマスコミ報道を受けて、市民グループが2008年4月28日~29日にかけて現場に入って調査を行いました。到着後、サジェク・ユニオンの保存林区域内の8つの村、ナーサリー・パラ(村)、ダネ・バイボチョラ村、バメ・バイボチョラ村、プールボ・パラ(村)、バルガット・パラ(村)、レトカバ村、MSFパラ(村)およびゴンガラム・ムク村で、全焼した家々(ほとんどは丘陵民(丘陵に住む先住民族)のもの)の焼け跡を目撃しました。4キロにわたって家々の黒焦げの焼け跡が見られました。住民の多くは依然として身を潜めている様子でした。他の人からは、事件で数名が負傷したと聞かされました。住民は適切な住処が無く、屋根もない空の下で日々を送っている人たちもいました。

現地調査で私たちは何が起こったかを明らかにするために丘陵民とベンガル人の被害者や目撃者、他の地元住民、軍関係者などから聞き取りを行いました。私たちが目の当たりにした状況、事件の背景にある主な要因、現時点で必要と思われる行動について説明を試みます。我々の中には自費で現地を訪問した者もいますが、そうしたのは、バガイチョリという山間部の僻地で起こった事件の全容を国内マスコミが十分に報道しなかったのではないかと感じたからです。


今日まで、何戸の住居が焼失し、何人が被災したかに関して詳しい公式な記録は作成されていないようです。新聞は150~200世帯ほど影響を受け、そのほとんどがチャクマ民族であると報じています。事件の被害者、目撃者と直接話し、4月20日の午後9時ごろから翌日早朝にかけて付近の多くの住居が全焼したことを知りました。そのほとんどは丘陵民の家でしたが、一部はベンガル人のものでした。調理器具、書籍、衣服など家財道具もほとんど焼けてしまったとのことでした。
同地域のチャクマ住民が恐怖に震えながら自分たちの家が焼かれるのを眺めた経験について語ってくださいました。

バルルガート・パラ(村)に住む45歳のチャクマ民族は「お米も衣服も、鍋釜食器も、全部焼かれました。学校の教科書も、出生証明書も、SSC卒業証書も全て焼かれてしまいました」と語っていました。

何人かの目撃者や被害者は、家に放火した人たちが貴重品を略奪したことについても語りました。ダネ・バイバチョラ村の35~40歳ぐらいのチャクマ住民は4月20日夜9時45分ごろ、叫び声を聞いて家から飛び出したところ、隣の家が燃えているのが見え、炎の中から助けを求めて叫ぶ声を聞いたと語りました。彼の家も全焼しました。そこには黒焦げの柱の跡だけが見えました。彼はこう語りました:「火をつけた人たちは、最初に私たちの家からテレビやベッド、洋服ダンスなど見つけたものは何でも略奪していき、最後は家に火をつけました。火をつけた人たちは全てを持ち去りました。」 別のチャクマ女性が語りました:「ベンガル人の村でTVが見つかったと聞きました。軍はテレビを返すと言っています。」

80歳ほどのチャクマの老人は、「こんな惨めな目に遭ったのははじめてです」と話しました。その家族には学校に通う子供が二人おり、一人はSSC試験の勉強をしており、もう一人は7年生ですが、教科書が全て焼けてしまって学校にも行けないとのことでした。

ゴンガラム・ムク村では、ベンガル人が礼拝所を破壊して小屋を建てたという訴えもありました。地元の陸軍駐屯地に窮状を訴えても何もしてもらえなかったと住民は語りました。火災の後、30~35家族がバガイハットのモイトリープール・ジョギ・ボノ・ビハール仏教寺院に避難しました。

寺院の住職は「宗教指導者として、私たちの地域でこのような事件が起こったことを恥ずかしく思います」と語りました。

影響を受けたベンガル人も何人か4月20日の出来事について説明してくださいました。地元丘陵民の間では、このベンガル人たちは「入植者」として知られています。

モハマド・ロフィクル・イスラムは10~11年前にバガイチョリに来ました。彼はムスルマン・パラ(村)に住んでいます。二ヶ月ほど前、彼はゴンガラム・ムク村の丘陵民の住居の近くに小屋を建てました。事件の夜、「ウジャオ、ウジャオ」と叫ぶ声が聞こえたので、恐怖のあまり家から逃げ出したとのことです。「「ウジャオ、ウジャオ」という叫び声が近づくのが聞こえたので、逃げ出して陸軍駐屯地に避難しました。」と彼は話しました。また、事件を目撃したバガイチョリ・バザール管理委員会の書記長は「事件の夜、9時45分ごろ、私はハフィズ少佐の車に乗っていました。[駐屯地では2B連隊の創設記念日の行事が行われていましたが、外で騒いでいるのが聞こえたので外に出たのでした。]「ウジャオ、ウジャオ」という叫び声が聞こえ、黒い服を着てマスクを被った100~150人ほどの人々が家に火をつけているのを見ました。地元の丘陵民ではなく、よそ者でした。」

放火事件の背景に関する被害者の説明

広い面積を持つサジェク・ユニオンはランガマティ県の一端に位置し、主に保存林からなっています。この地域でのいかなる居住も違法とされています。しかし、多くの丘陵民が慣習的な規範に則り、正式な土地権証書を持たないまま、何世代にもわたってここで暮らし続けてきました。

丘陵民もベンガル人も、この2ヶ月ほど同地域で緊張が高まっていたことが事件の一因だったと説明しました。緊張が高まった主な理由は、ベンガル人が丘陵民の家の近くで家を建設していたことです。バガイハットからゴンガラムに至る幹線道路沿いの4キロの区間で同じような光景が見られました。丘陵民の家の隣か真向かいにベンガル人入植者の小屋が点在していました。そこには、夜は誰もおらず、泊まっていないようでした。入植者に聞いたところ、これらの小屋は、この2ヶ月ほどの間に建てられたことを知りました。当初から丘陵民たちは、ベンガル人たちが自分たちの伝統的な土地に入植地を作ることを承服していませんでした。この問題ですでに対立や衝突が起こっていました。最初から丘陵民はベンガル人が建物を建設することに反対していました。抗議にもかかわらず小屋の建設が続いたので緊張がさらに高まりました。

現場訪問で、火事が家から家へ燃え移ったのではないことが明らかとなりました。家は散在しており、それぞれの家に別々に火がつけられたことが間違いありませんでした。たとえば、バイバチョラ村では全焼した丘陵民の二つの家の間にベンガル人入植者アブル・マレクが姑のアヌワラ・ベゴムと一緒に暮らしているのを見つけました。チャクマの住居2戸は4月20日に焼けましたが、その間にある小屋や焼けていませんでした。

ゴンガラム・ムク村を除き、丘陵民の家が全焼しているすぐ隣や近所でベンガル人の住居もしくは小屋が焼けずに残っているのを目の当たりにしました。このパターンは、放火犯が実行を計画し、丘陵民とベンガル人の家を区別した上で放火したことを示しています。ほとんどの人は、丘陵民を脅迫して追い出そうとしている首謀者としてアリとバブルという二人の名前を挙げました。ゴンガラム・ムク村のあるチャクマ住民によれば、アリたちが4月19日に自分の経営する店にやってきて、日暮れ前に出て行かなければ彼も店も焼き討ちして家族全員を殺すと脅したとのことでした。恐れのあまり、彼はその夜に妻と子供たちを別の家に送ったそうです。翌20日に彼の家は放火されました。この男性は自分の破れた半袖シャツとルンギ(腰巻)を指差し、「放火から今日まで、ずっとこの同じ服を着ています」と涙ながらに訴えていました。

ある村のカルバリ(長)は、「我々が2~3人で話しているのを見るだけで彼らは軍の駐屯地に通報するのです」と話しました。匿名を希望するゴンガラム・ムク村の別の丘陵民はこう語りました:「入植者の家を道路沿いに建設するので、家を道路から2~3キロ離れたところに移すように言われました。文句を言えば生贄の牛のように屠ってやるとアリやその仲間たちに言われました。」

確かに丘陵民とベンガル人の間の緊張関係が火災の発端となりましたが、その理由はもっと根深く、この地域でのベンガル人の入植地建設が丘陵民をさらに弱い立場、不安定な生活に追いやっていたことにあると私たちは考えます。他方で確かに、この地域に住むベンガル人のほとんどは大変貧しく、政府からの食糧配給に頼っていることも事実です。国内各地から来たこれらの弱い立場の人々は政府の支援に頼りながらぎりぎりの生活を強いられています。

救援・生活再建:同地では今まで3回、救援物資が配られました。最近では陸軍の最高司令官が4月29日に同地を訪問した際に、被害を受けた住民にそれぞれ現金500タカと食糧(米5キロ、ダール豆1キロ、ジャガイモ2キロ)を配りました。その前は、陸軍および行政から1人500タカずつ配られました。陸軍最高司令官の訪問時には住居再建のために各世帯に1万タカずつ提供すると発表されました。私たちがインタビューした何人かは、それでは不十分だと語っていました。ベンガル人入植者のほうが多くの支援を受けたと主張する丘陵民もいました。救援物資配布の際に何人かのチャクマ人が何ももらえずに帰って行くのを私たちも見ました。

誰の責任か? カグラチョリ町からランガマティ県の北端にあるバガイチョリ郡のバガイハットまで移動し、そこからゴンガラム・ムク村まで行けば、誰しも「ここは本当にわが国だろうか」と首をかしげるでしょう。軍による検問があまりにも厳しいからです。全てが厳しく監視されています。出入りする全ての人の名前が書き留められます。一人ひとり、身元を明かさなければなりません。車の番号も記録されます。この地域から出るときには番号が再度チェックされます。これほど厳しい監視の下でこのような放火攻撃がどうして起こり得たのかを問うことは重要だと私たちは考えます。

何人かの丘陵民の被害者に「事件の責任は誰にあると思うか」と尋ねました。彼/女たちは、躊躇いも無く、ベンガル人が家に放火し、陸軍兵士もいっしょにいるのを目撃したと話しました。一方、ベンガル人の被害者たちは、地元の丘陵民ではなく部外者が事件に関与していたと答えました。

陸軍の主張:バガイハット陸軍駐屯地の関係者にも話を聞きました。陸軍駐屯地が事件に何らかのかかわりを持ったかと司令官イムティアズ中佐に聞いたところ、彼はこう答えました:「関係があるなどとは問題外です。「ウジャオ、ウジャオ」と叫ぶ声が聞こえたのですぐに駆けつけました。兵士を送りました。私自らも行きました。丘陵民とベンガル人が平和に融和して暮らすのを見たくないと考える、外からやってきた丘陵民がテロを実行したと断言できます。」一見したところ、恐らく事件はJSSかUPDFのせいだろうと彼は付け加えました。アリとバブルの活動に関して何か対策は講じたのですかと質問したところ、イムティアズ中佐は「ゴンガラム・ムク村の長、ビラーシュ・チャクマから(アリ)がモンゴル・クマール・チャクマを脅迫しているとの通報を受けたので、アリを4日間拘束しましたが、そのあと開放しました。他に誰からも苦情を聞いていません」と答えました。アリが司令官の名前を使って住民を脅迫し搾取しているという私たちの主張が正しいと分かれば対策を取るとも彼は言いました。

私たちの提案:私たちは現場調査、関係者とのインタビュー、状況分析に基づき、下記の通り、いくつかのことを提案いたします:

1. 独立的で中立的な司法調査委員会を結成し、一定期間内にその報告書を公表することを義務付けること;攻撃の責任者を訴追し、懲戒処罰すること。
2. サジェク・ユニオンでの放火攻撃で被害に遭った人々に適切な補償金を提供し、住居の再建も含め速やかに生活再建を図ること。
3. バガイチョリ陸軍駐屯地に拘束されている3人を解放すること。
4. サジェク・ユニオンをはじめ、丘陵3県へのベンガル人の入植を止めさせること。
5. 1997年CHT和平協定に従い
a) 全ての土地紛争の調査と裁定のために土地委員会を活性化させること。
b) CHTから陸軍駐屯地を引き上げること。
c) CHT地域評議会が有効に働けるようにすることを含め、文民行政が本来の業務を遂行できるようにすること。

ランガマティ県バガイチョリ郡サジェク・ユニオンで現場調査を行った市民グループは下記の通りであった:

1. Syed Abul Maqsud(作家、ジャーナリスト)
2. Ziauddin Tareque Ali (連帯社会運動(Shonmilito Shamajik Andolon)、委員)
3. Pankaj Bhattacharya(連帯社会運動、委員)
4. Shameema Binte Rahman(ジャーナリスト)
5. Supriyo Chakma(プロトム・アロ紙ランガマティ特派員)
6. Jewel Dewan(弁護士、バングラデシュ法的支援サービス信託(BLAST))
7. Robayet Ferdaus(ダッカ大学助教授)
8. Sara Hossain, (弁護士、バングラデシュ最高裁)
9. Abu Ahmed Faizul Kabir(法律・慣習法センター(Ain o Salish Kendra、ASK)調査担当)
10. KCing Marma(チッタゴン大学学生)
11. Rajiv Mir(チッタゴン大学助教授)
12. Anirban Saha(ASK調査担当)